空虚なる世界

グループカウンセリングでサイコドラマについての講義を受けてきた。
その中で一つ気になったのが、「Elan vital」(生の跳躍)というもの
普段人間は、その環境に必要とされる役割を演じることを強いられている。
たとえば兄、姉のような役割が代表的。
しかし、恋をしたときなどに突然生じる普段見せない振る舞いなどがある。
これこそが、過去に影響されないその人の人格そのものである。
っていうお話。











自分探し、なんてよく一人旅をする人が見受けられるけれども
それって本当に自分探しなのかな?と今回の講義を受けて疑問を持った。
新しい環境、なれない環境にさらされ新たな自分の一面に気づくって言うならそうだろう。
しかし、それは新たな環境に影響されその環境において必要とされる自分の役割を新たに演じているだけなのでは?
と、心理学においてまだまだ浅学な俺が思うわけだ









まぁふんわりとこんな感じがするっていうことしか分からないから、いざ文章にしてみると言葉が浮かんでこないんだけどね











どこかで、こんな事を耳にした記憶がある。
「あることを決断したとき、自分で決断したと思っていても実際はほかの何かによって影響を受けたがためにその決断をしている場合がある。」
このことを聞いて以来、何かを決断するときそれが本当に自分の意思によるものかを再々確認するようになったんだ。
過去に自分が下した出来事で、その時の影響についての確認をした場合、確かに影響されている可能性を見出せることがあった。
リアルタイムの決断においてそんなところまで考えていたら、自分の意思がどこにあるのか分からなくなるからちょっと危ないね
自分の意思、意見はちゃんと持て!と言われ、一応思ったことを言ってみた。でも実は他人の意見を弄っただけだった・・・
自分の意思ってどこにあるの?他人に影響されちゃいけないの?
やっぱり行き着く先は、その場において最適の行動、決断をいかに選択するかって言うことだ
学者じゃないのにこれについて突き詰めていくのはちょっと苦だし、そのうちひょっこり新しい視点が舞い降りてくると嬉しいな












心理学云々以前に、自分を知ると言うことは相当な覚悟が要る事だし、そう簡単に探し当てられるものじゃないと思ってる。
もし、本当に自分を知ることができて、それがもし自分の理想とする自分からかけ離れあまりにも惨めな姿であったなら・・・
自分を知る。ことも大切だと思う。でも、自分を自分の理想へと近づけようとする地道な努力こそが真の自分探しなのでは?
まだ自分なりに満足のいく論じゃないかなぁ
自分をまったく見ないで生きていくと、他人に迷惑が掛かるし。
自分をよく見て生きていくと、自分が不自然になってうまくいかないし。
どちらも不合理
ムズカシイ










久しぶりに頭の中がよく動いたのでこんな感じにw
死ぬまで成長、死ぬまで挑戦をモット〜にふんわり考えて生きましょう♪